※文末に、この投稿に対してツッコミを入れます※
シンママハウスを運営している中で、
色んなお問い合わせをいただき、
色んな家族の在り方を共に体験させてもらっています。
母子の衝突や、親同士の話し合いを通じて、
お子さん自身の心身の成長も見させてもらったり、
ママさん自身の変化も見させてもらったり。
僕自身、離婚を経験して、しんどかった時があったのですが、
その経験が活きて、有難い役割をさせてもらっているなとつくづく感じます。
仕事を通じて、自身も成長させてもらっています^^
仕事が楽しいですし、僕に出来ることでもっと役に立ちたい!と思っています。
さて、今回お伝えしたいなと思ったことは、
「その『愛情』ってほんと?」
ってことです。
最近の出来事を踏まえて、こんなマトリックスを作ってみました。
最近、とある音声を聞いていました。
「親子の話を何でも出来る」といったコンセプトで、
主催者の方は、親子関係の事業をされていて、
200人ぐらいリスナーがいました。
参加者さんからの質問は:
「落ち着きがない4歳の娘を体操教室に通わせたいんだけど、
子どもに判断能力がまだないから、
私の判断で通わせようと思っているんですが、
“仕事だってしんどい”じゃないですか。
しんどいと本人が感じたら、それも将来の社会勉強だと思って習わせようと思っているんですけど、
旦那が経済的な事情から反対するんです。」
といった趣旨でした。
主催者さん:
「父と娘って遺伝子的に近親相姦にならないように離れ合うようになっているから、
仕方ないですよね~。
父親の加齢臭とか嫌うのもこういう理屈で…。」
他の参加者さん:
「あ、でも私、ずっと父と仲が良いです。
こないだも脱衣所で裸でバッタリ居合わせちゃったんですけど、笑いあって終わりました~」
主催者さん:
「…あ!なるほど、そういうことも例外的にありますよね~」
…場がちょっと凍り付く。
ちょっと気持ち悪くなって、途中で退出させてもらいました。
身近な人ほど、見失いがちだし、
僕もこの音声聞いて改めて思いましたが、
“知識”や”見解”は愛ではない。
ってこと。
「本人(お子さん)の意思がどこにもないやんけ」
ってこと。
それは、
自分が思う「こうあるべきなのだ」という愛であって、
数十年前に、自分自身が欲しかった愛なのかもしれないんだろうなぁ、と。
今一度。
「〇〇したらこうしてくれる」
「〇〇とはこういうものだ」は愛じゃないですよね。
男性とはこういうものだ
女性とはこういうものだ
仕事とはこういうものだ(僕、仕事大好きですもん)
社会とはこういうものだ
学歴とはこういうものだ
それは全て、自身の価値観であって、投影かもしれない。
条件付きで与えてるステージなのかもしれない。
関係性に応じて、自分の立ち位置は変わってくると思うので、
それ自体が悪いわけではないですが、
もしかしたら今していることって、価値観の中のコントロールなのかもしれません。
あくまで、その可能性がある、という範疇ですが。
「この子はこうしなければいけないのだ」(何故なら私が過去そうだったから)
ではなく、
「この子はどうしたいのか」の声を聴ける環境をどうやって整えたら良いか(私がその環境を創る)
にシフトしていけたら良いですよね。
◆◆
さて、文末のツッコミ。
「このマトリックスも知識やんけ!」
笑
自分の在り方を考える時は、知識ってほんとはいらないんです。
知識が必要な時は、「やる」時です。
どこに行きたいか、に正解はないでしょ?
どう生きたいか、にも正解はないように。
でも、どこに行きたいか、が決まれば、
そこに到達するための行き方には正解が出てきますよね。
〇×がつけられる世界と、
〇×がつけられない世界があるのですが、
大人の方が混同しちゃったりする。かもしれませんね。
そこらへんのお話は、ママ向け起業塾「ママnote」でお伝えしています。
(ママnoteのページもリニューアルしないと。。)
合言葉は
「それって、本当にそう?」
それだけかな、と思います。
愛って、
例えば震災や災害が起きた時に、
例えば子どもが生まれた瞬間のような
どうしても心がうずくような
「それ」だと思うんです。
怒ったり泣いたり、笑ったり。
一瞬一瞬が愛しく思える社会へ。