先週のマツコ会議をTverで見た。
めちゃめちゃ良い会だった。ゲストはCreepy Nuts。
LGBTQの代名詞のようなマツコ・デラックスさんと、
時代の弱者たちのメッセンジャーとして発展したHIP HOPをやっているCreepy Nutsさんが
番組後半に涙をする、考えることがたくさんあった回だった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fae7fe156b5e73880338ba504f658a474c5855b0
(この記事、残ってたら良いなぁ。)
おおむね、視聴した上での印象に残った内容は以下。
HIPHOPはテレビでやるのは難しい。
テレビに映っている時点でエンターテインメントだから。アタシ(マツコさん)も相当苦しんだ。
テレビがアタシに合うようにしてくれたから売れるようになった。
でも、映っているそれが自分の本質だとは思っていない。昔、テレビは演出次第で全部嘘だった。
今は、本当のことを面白おかしくボカして言うのがエンターテインメントになった。
誰かの悪口を楽しく言うのがエンターテインメントになった。
変なこと言うからエンターテインメントになった。出演する側は消費される。
出したかったメッセージは、編集次第で都合のいいように切り取られる。相当なジャンルが崩壊の後、また生まれる。
(僕の解釈も一部入れています。これも編集です。)
去年、こんな記事を書いた。
今も一緒。全く可哀想と思っていない。
「〇億借金した後、〇〇億稼いで大成しました!」
みたいなことが美談になるように
自分が認識できる範囲を超えると、
それはエンターテインメント化する。
僕はかつて、当事者の人と
日本一早くLGBTQの方のハウスをしたことがあった。
(コロナ等の影響により、2020年閉鎖)
その方とは今も繋がりがあるけれど、
全く可哀想とは思わない。
友達だから。
飲み会をやれば、それこそマツコさんみたいにパワーある人が何人も集まり
腹がよじれるほど面白い下ネタ談議になったし(またやりたいなぁ。)
一方で、やばい人はやばく、あかんものはあかん、と
何人も入居の問い合わせを断ったこともある。
断った人に共通してるのは、自分が可哀想ばかりで周りが見えていない人。
友達になれないなと思った。
LGBTQだろうがシンママだろうが、
誰だって住める権利はあるわけであって、
特性が合えば売れっ子タレントにだってなれるわけだ。
住む側も、性根は正さないといけない。
そこが直らないと、自分を生きることを決めないと、
シェアハウスという不動産は崩壊する。
困っていることはあるかもしれないけれど、
それを可哀想とは思わない。
可哀想というのは、「それについてどう感じるかどうか」認識の話。
だから、手を差し伸べない。
あなたはあなた、子どもは子ども。
本来、選べはずの側を被害者にしてるのは、提供側でもある。
不動産は、可哀想を集める箱ではなく、権利。
マツコさんが終盤に言っていた。
「一回ぶっ壊してみたら良いと思う。」
それは、自分自身と、世界への認識でもあるんだと思う。
シェアハウスはもっと高度で暖かかった。
大衆の消費されるものになるものではない、と僕は思う。